DREAMS OF GORE:Phase 2
Bボタン事件(完全版)




つてオレとともにゴミのような中学時代を過ごした幼なじみに浩平くんという男がいるのだが、これはトラックで食料品の配達をやってる男である。ある夏の暑い日、配送中に何かめんどくさくなってちょっとずつ積み荷を捨ててたら、彼の通ったあとには捨てた積み荷で道ができていたという『ヘンゼルとグレーテル』のような毎日を過ごすトラッカーだ。しかし本人的にその肩書きはさして重要ではないらしく、一度はレンタルビデオの入会申込書に「職業 ブルースマン」と大書していた。そんなエピソードから判るようにこの彼もなかなか男らしく、かつて「煙草とコーヒーとヨタ話をやらねえやつは男じゃねえよ」という名言を吐いたことで知られているのだが、その言葉の通りオレたちも十数年の付き合いの中で一度たりとも意味のある会話をしたことがないという、まァ男の中の男ですな。

んな浩平くんは学生の頃、近所のファミコン屋でバイトしていた。そういえば高校生の頃、彼の紹介で船橋の漁港まで出向き、冷凍マグロの積み降ろしという無茶なバイトに従事したことがあった。朝の5時から10時まで(時給1,000円)という、今になっては割がいいのか悪いのか、いや確実に割に合わないバイトだったが。オレらは当時から申し分のないヘタレだったので、氷点下の冷凍倉庫でカチカチに凍ったマグロと格闘するうち、寒いんだか暑いんだか判らなくなったうえに気が遠くなり、2週間契約を1日でバックレたのであった。そんなわけで昔から勤労に対する意識がどこか決定的に間違っている浩平くんである。いやオレも人のことは言えませんが。まァそれはまた別の話として、ファミコンショップ ハチスケという実にどうでもいい名前の店でその日もダラダラダラダラと店番をする浩平くんだったが、そんな彼の眼に信じられない光景が飛び込んできた。おそらく中学2年生ぐらいだろうか、眼鏡をかけていかにも気の弱そうな少年が。いかにも落ち着かない様子で店内のあちらこちらを物色しては誰も買わないような「PCエンジン」のソフトを手に取っては数歩歩いて棚に戻したりしていた。こいつは確実にやる気だな、と浩平くんが直感したとおり少年は事を起こしたのだが、そこからが信じられなかった。何を思ったか少年はファミコンのBボタン(定価20円)を手に取り、それをそのまま学生服のポケットに入れたのである。浩平くんは自分の眼を疑った。それまでにも数多くの万引き少年を捌いてきた浩平くんであったが、何せ単価20円は前代未聞である。彼は正直悩んだ。この気弱そうな少年の未来を、たかが20円の窃盗で閉ざしてしまっていいものか。人間としての優しさと職務意識との板ばさみで実に5秒もの間悩んだ浩平くんは、結局「なんとなくおもしろいから」という狂った理由で、足早に店から立ち去ろうとする少年の襟首をガッと掴んだのである。

て浩平くんと一緒にバイトに入っていた高橋くんという青年がいた。高橋くんは浩平くんより歳こそ下だったが、その肉体は相当屈強だった。そして中卒だった。怖いものなしの命知らずなガイだった。そんな彼へのリスペクトの証として、「はいコレ」浩平くんはその万引き少年を高橋くんに引き渡したのである。浩平くんに襟首を掴まれた少年は、今度は髪の毛を鷲掴みにされてレジの裏は事務所に連行されていった。こうなるともう仕事どころではない。浩平くんは、事務所のドアに張りついて様子を窺った。客が来ようが何だろうがもはや知ったこっちゃなかった。

して尋問が始まった。
「お前なあ、中学まで上がって」ファミコンのBボタン(20円)を弄びながら高橋くんは呆れてみせた。「こんなもん万引きしてどうすんだよ」短い沈黙のあと、
「買えよ!」突然ものすごい正論を高橋くんが絶叫したので、事務所を覗いていた浩平くんは腹を抱えて爆笑した。しかし高橋くんの怒りはもはや収まらない。激情にかられた彼は掌の中のBボタンを、下を向いて何も言わない中学生に向かって投げつけた。さてBボタンというのはゴム製で、裏側は空洞である。便所が詰まった時に使うカッポンカッポンのゴム部を想像していただけば判りやすいだろう。そんなBボタンが時速160kmで宙を飛んだ。そして少年がゆっくりと上げた蒼白な顔を見て、ついに浩平くんは床に倒れた。吸盤状のBボタンが、冷や汗にじっとりと濡れた少年の眉間にペタ〜と張り付いていたのだ。「ブハッ…ブハッハッハッハッハッ!」浩平くんはレジの横に転がったまま、爆笑し続けた。すると「ゴハッハッハッハッハッ!」あろうことか尋問中の高橋くんまでもが少年を指さして猛烈な勢いで笑っているのだった。「何なんだよお前は…ワハッハッハッハッハッハッ!」ファミコン屋の店内が阿鼻叫喚の爆笑地獄と化した中で、眉間に黒いゴムをへばり付かせた少年だけが、完全に千昌夫のパチ物に成り下がって震えているのだった。「ブハッハッハッハッハッ!ひっひい〜」爆笑は約20分続いたという。

疲れちゃったじゃねえかよ、お前のせいで」煙草に火をつけながら、高橋くんは未だ眉間に黒いBボタンを貼り付かせた少年を睨んだ。少年は萎縮しきって、今や米粒大にまで小さくなってい た。実際のところ襟首を掴まれ、髪を掴まれ、ものすごい正論を怒鳴られ、そしてBボタンを投げ付けられた末に腹を抱えて爆笑されたのだ。小さくなるなというほうが無理な相談だった。もはや人間の尊厳も米粒大だった。「お前中学か、今」セブンスターの煙を鼻から噴き出して、高橋くんが言った。「俺はよう、中学っきゃ出てねえんだよ。それでもな」どうやら説教モードに入ったようだ。もう大爆笑の展開はない、浩平くんはそう判断した。と、張り付いていた事務所の小窓から離れようとしたその瞬間、少年の額からBボタンがぽとりと落ちたので、高橋くんと浩平くんはそれぞれの定位置に倒れてゲラゲラと笑った。

れから2時間が経った。ハチスケにも閉店の時間がやってきていた。閉店のテーマがわりに流れる適当なブルース、『プリーズ・ギブ・ミー・サムシング・トゥ・リメンバー・ユー・バイ』(唄/ギター・スリム)を聞きながら浩平くんが床をモップでいい加減に拭いていると、ようやく事務所の扉が開いた。高橋くんは妙に満足げな表情を浮かべている。まるでピンサロから出てきた会社員だ、と浩平くんは思った。「そしたらお前も早く一人前の溶接工になれよ。判ったか?」一体こいつらは何の話をしていたんだろう。浩平くんはそう疑わずにはいられなかったが、少年は素直にうなずいた。心なしか眼鏡が斜めになっていた。「じゃあ」高橋くんは少年の両肩をしっかりと抱き、彼の目を見て言った。「もうやめろよ、こんなバカなこと。約束できるか?」高橋くんは泣いていた。少年も泣いていた。浩平くんもちょっと泣くかと思った。「…はい」それまで殆ど喋らなかった少年が、やっと口を開いた。「そうか」高橋くんの頬を一筋の涙が伝った。「…そうか」午後9時を少し回ったところだった。
「じゃあ、警察呼ぶから」
少年はその場で失神した。

察は5分で到着した。少年は 口の端から泡を吹きつつ、2人の警官に両脇を抱えられる形で連行されていった。その姿はNASAに捕獲された宇宙人グレイを思わせた。そんな少年の後ろ姿を見送りながら、高橋くんが向き直って言った。「浩平さん、やってやりましたよ!
自分の前で、白い歯を剥いて笑う男。今の今まで泣いていた男。どちらが高橋くんの本当の姿なのか。いずれにせよ彼の心の闇は深い。おそらく自分の想像を遥かに超えて。そんなことに想いを巡らせつつ、浩平くんはそっと呟いた。「お前…仕事しろよ」  

(完)


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